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秋月種実 あきづき たねざね (1548~1596) 秋月家
筑前の国人。父の代に大友宗麟に攻められ、父と兄は自害、種実は逃げ延びて毛利家に身を寄せた。のちに毛利家と旧臣たちの力を得て旧領を回復する。1567年以降、大友家に反旗を翻した高橋鑑種、立花鑑載と共に宗麟を苦しめたが、多々良浜の戦いで後ろ盾であった毛利家が敗れると降伏した。高城川(耳川)の戦いで、大友家が敗れると再び反大友の姿勢をとり、龍造寺隆信、隆信死後は島津家と手を組んで領地を広げ、最盛期には36万石を領有した。豊臣秀吉による九州征伐では島津家との盟約を守って豊臣軍と戦うが敗れ、楢柴肩衝を献上して降伏する。九州征伐後、旧領は没収され、日向国へ転封となり所領も3万石に減封された。
有馬晴信 ありま はるのぶ (1567~1612) 有馬家
肥前の戦国大名。熱心なキリシタン大名で、大友宗麟、大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣したことでも知られる。祖父・晴純の時代には島原半島一帯を支配し、貿易をもって最盛期を迎えたが、晴純晩年から大友、龍造寺家によって圧迫され始めた。父・義貞の死により、家督を継いだ頃には完全に勢力を失い、龍造寺隆信に臣従をせざる得ない状況に追い込まれた。島津家が北上してくると、島津家に寝返り、島津家久と共に沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討死させ、龍造寺家に大打撃を与える。九州征伐では豊臣秀吉に従って所領を安堵され、関ヶ原でも道を誤らず東軍に属して生き残るが、岡本大八事件で甲斐国に流され、のちに自害させられた。
阿蘇惟将 あそ これまさ (1520~1583) 阿蘇家
肥後の戦国大名。阿蘇家は代々阿蘇神社の大宮司をつとめた家柄。惟将が当主となった頃の阿蘇家は、南は島津家、北は龍造寺家の圧迫を受けて窮地にあったが、重臣・甲斐宗運の補佐を受けて、肥後国外は大友宗麟に従い、国内は相良義陽と結んで対抗した。大友家が耳川の戦いに敗れて没落すると、島津家、龍造寺家と巧みな和平交渉を行い領国の保持につとめたが、宗運とほぼ時を同じくして病没し、阿蘇家の命運に暗い影を落とした。
阿蘇惟種 あそ これたね (1540~1584) 阿蘇家
肥後の戦国大名。阿蘇惟将の弟。兄・惟将に嫡子がなかったため、養子となって惟将死後に家督を継いだ。しかし、惟将の死から1年足らずで急死した。跡を継いだ嫡子・惟光はまだ3歳と幼少であったため、惟種の早すぎる死が阿蘇家の滅亡を招いたといわれる。
阿蘇惟光 あそ これみつ (1582~1593) 阿蘇家
阿蘇の戦国大名。阿蘇惟種の子。父の急死により、わずか3歳で当主となり、阿蘇神社の大宮司となる。だが、幼少のうえに阿蘇家を支えてきた重臣・甲斐宗運もすでに亡くなっていたため、北上してきた島津家には抗えず降伏した。豊臣秀吉による九州征伐が始まると、秀吉に保護を求め、九州平定後に僅かながら領地を与えられた。1593年、海北一揆と結託したのを疑われ、わずか12歳で処刑される。のちに弟・惟善が加藤清正に召し出されて大宮司を継いだため、家名は存続した。
甲斐宗運 かい そううん (1508?~1583) 阿蘇家
阿蘇家重臣。諱は親直。智勇兼備の良将で、阿蘇家のためなら一族も処断した忠臣として知られる。北上を狙う島津家に対し、肥後国外では大友宗麟に従い、国内では相良義陽と結んで領国の保持につとめた。特に義陽とは不戦の誓紙を交わすほどの盟友となる。1578年、大友宗麟が高城川(耳川)の戦いに敗れ、没落し始めると、肥前の龍造寺隆信に人質を送って臣従し、島津家に対抗した。しかし、盟友・相良義陽は島津家の勢い抗えず降伏。島津家の命によって攻めてきた義陽と戦うことになってしまい、やむなく義陽を討ち取った。相良家を退けはしたが、阿蘇家単独では島津家に対抗するのは難しく、以後は龍造寺家、島津家との和平交渉で難局を乗り越えようと苦慮した。しかし、完全な道を見い出せないまま病没した。
大村純忠 おおむら すみただ (1533~1587) 大村家
肥前の戦国大名。日本初のキリシタン大名で、大友宗麟や甥の有馬晴信と共に天正遣欧少年使節を派遣したことで知られる。龍造寺隆信が勢力を伸ばしてくると息子らを人質に出して臣従し、沖田畷の戦いでも龍造寺方として参加した。しかし、甥の晴信が島津方だったため、積極的な攻勢には出ず、龍造寺勢が総崩れになっても島津勢の追撃は受けなかった。豊臣秀吉の九州征伐には病で参加できなかったが、嫡子の喜前を参陣させて所領を安堵された。秀吉によるバテレン追放令が出る前に亡くなった。
蒲池鑑盛 かまち あきもり (1520~1578) 蒲池家
筑後の国人。柳川城主。義に厚く、兵法に通じた将と伝わる。筑後守護も兼ねていた大友義鑑、義鎮(宗麟)に従い、各地を転戦して武功を挙げた。肥前の少弐家臣・龍造寺家兼とその曾孫・隆信が家臣団の争いで窮地にたたされた時は、これを手厚く保護して龍造寺家の再興にも貢献した。1578年、宗麟に従って高城川(耳川)の戦いに参加したが、混戦の中で討死した。家督は子の鎮漣が継いだ。
蒲池鎮漣 かまち しげなみ (1547~1581) 蒲池家
筑後の国人。柳川城主。鑑盛の子。父・鑑盛と共に大友方として高城川(耳川)の戦いに参陣したが、父と違い大友家に服属するのを嫌っていたため、病を装って帰陣、その耳川の戦いで父が討死すると、家督を継いだ。大友家が没落し始めると、龍造寺隆信に従い筑後経略に貢献するが、島津家が北上してくると、島津家に寝返ろうとしたため、隆信に呼び出され謀殺された。
城井鎮房 きい しげふさ (1536~1588) 城井家
豊前・城井谷城主。城井家は下野宇都宮家の分家で鎌倉時代には豊前国内に一大勢力を誇ったが、鎮房の時代にはすでに衰退し周防の大内義隆の傘下にあった。1550年、義隆が陶隆房の謀反で横死すると大友宗麟に鞍替えし、その宗麟が高城川(耳川)の戦いで島津家に敗北すると今度は島津家に従属、豊臣秀吉による九州征伐が始まると秀吉に従った。しかし、秀吉に対してはあまり協力的ではなかったため、秀吉の怒りを買い対立、豊前を与えられた黒田官兵衛、長政親子に攻められ降伏した。降伏後、最終的には官兵衛、長政親子に信を置けない者と判断され殺害された。
伊東義祐 いとう よしすけ (1512~1585) 日向伊東家
日向の戦国大名。日向伊東家11代当主。朝廷に献金して高い位を得ると同時に、島津貴久と戦って日向南部に勢力を広げ日向伊東家の全盛期を創り出した。しかし、木崎原の戦いで島津義弘に惨敗。急激に勢力を失い、大友宗麟を頼って豊後へ落ち延びた。その後、宗麟に助力を願い出て日向へ侵攻してもらうが、宗麟は高城川(耳川)の戦いで惨敗、大友家中での居場所を失い伊予へ逃亡した。遠祖を同じくする伊東掃部助が羽柴(豊臣)秀吉に仕えていたのがきっかけで、子・祐兵が秀吉に仕官すると放浪の旅に出た。だが、病にかかり、便船で堺にある祐兵の屋敷へ向う途中、病が重くなり面倒を嫌った船頭によって浜に捨て置かれた。たまたま事を聞きつけた祐兵の従者よって屋敷に運ばれたが、手当の甲斐なく亡くなった。
伊東祐兵 いとう すけたけ (1559~1600) 日向伊東家
伊東義祐の三男。父・義祐は、日向国内に勢力を広げ、日向伊東家の全盛期を創り出したが、木崎原の戦いで島津家に惨敗。その後、頼った大友宗麟も高城川(耳川)の戦いで惨敗すると伊予に逃れたため、それに従った。羽柴(豊臣)秀吉に仕えていた伊東掃部助が遠祖を同じくするという縁で秀吉に仕えるようになり、山崎の戦いなどに従軍。九州征伐では案内役をつとめて旧領復帰を果たす。関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍だったが、東軍に寝返り、その功が認められて所領は安堵され、日向飫肥藩5万7千石の初代藩主となった。
伊東祐安 いとう すけやす (?~1572) 日向伊東家
日向伊東家臣。日向伊東家の庶流。父・祐武は、日向伊東家9代当主で甥の祐充が亡くなると反乱を起こして自害に追い込まれたが、祐安は許されて日向伊東家11代当主となった祐充の弟・義祐に仕えた。義祐に従って日向南部を転戦して武功を挙げたが、1572年の木崎原の戦いで島津義弘に敗れて討死した。この戦いでは祐安だけでなく、伊東家重臣の多くが討死し、伊東家没落のきっかけとなった。
大内輝弘 おおうち てるひろ (1520~1569) 大内家
大内家14代当主・大内政弘の次男・高弘の子。父・高弘は、兄・義興に謀反を起こして敗れ、大友家に亡命した。そのため、豊後で生まれる。しかし、大友家中での身分は低く、困窮したという。毛利元就が北九州へ侵攻してくると、大友宗麟の重臣・吉岡長増の意見により兵を与えられ、周防で再起をはかるが、北九州の攻略をあきらめ撤退してきた吉川元春、小早川隆景の精鋭に攻められ自害に追い込まれた。
菊池義武 きくち よしたけ (1505~1554) 菊池家
大友義鑑の弟。宗麟の叔父にあたる。父・義長と兄・義鑑の思惑で肥後の名族・菊池家の家督を継いだ。菊池家の乗っ取りは、大友家の肥後支配の一環であったが、父の死後、兄の義鑑が大友家の家督を継ぐと、大友家当主への未練からか、大内義隆や相良家と手を組んで大友家からの独立を画策する。しかし、義鑑が大内義隆と和睦したため、強力な後ろ盾を失い、相良家を頼って落ち延びた。義鑑が「二階崩れの変」で横死すると、混乱を予想して再び反旗を翻すが、大友家の家督を継いだ義鎮(宗麟)は短期間で家中をまとめてしまったため、思惑は外れ、最後は和平を持ち出されて呼ばれたところを立花道雪の軍勢に包囲され自害に追い込まれた。
相良義陽 さがら よしひ (1544~1581) 相良家
肥後の戦国大名。相良家18代当主で人吉城を居城とした。父の死により、わずか12歳で家督を継いだが、幼少であったため、祖父・上村頼興の補佐を受けた。頼興の意向で、菊池義武の反乱を助けたことで対立していた阿蘇家と和睦し、その後、阿蘇家の重臣・甲斐宗運とは相互不可侵の誓紙を交わすほどの盟友となった。大友家の後ろ盾を得ていた阿蘇家と日向国で勢力を誇っていた伊東家と結んで島津家の侵攻を防いでいたが、伊東家と大友家が島津家に敗れて勢力を失うと対抗手段がなくなり島津義久に降伏した。1581年、島津家の意向で阿蘇攻めに参加せざる得ない状況に追い込まれ、盟友・甲斐宗運と戦い討死した。盟約を破ることになってしまったことを恥じ、あえて不利な場所へ布陣したという逸話が残る。
上村頼興 うえむら よりおき (1490~1557) 相良家
相良家重臣。上村家は相良家の庶流。謀略家として知られる。相良家16代当主・義滋が家督を相続した際、子・晴広を養子とすることを条件に、家督相続に邪魔であった義滋の弟・長隆を討つのに協力した。晴広が家督を継ぐと、有力家臣を謀殺して、そこにまた子を送り込んで家を乗っ取るなど、家中での影響力を強めると同時に政権を安定させていった。晴広に先立たれると、晴広の子・義陽の後見となるが、2年で病没した。死後、3人の息子らが義陽に対して反旗を翻すが、すべて討伐された。
土持親成 つちもち ちかなり (?~1578) 土持家
日向国北部の国人。同じ日向国内に勢力を誇った伊東家に対抗するため大友宗麟に従っていたが、木崎原の戦いで伊東家が島津家に敗北して没落すると、大友家から離れて島津家と結んだ。伊東家の要請を受けた宗麟が日向へ侵攻を開始すると、降伏を願い出るが許されず、居城を落とされて捕縛され、最後は自刃に追い込まれた。キリスト教に傾倒していた宗麟は土持領への侵攻で寺社仏閣を破壊してまわっており、これが兵士の士気を下げて高城川(耳川)の戦いでの敗戦に繋がったといわれる。
原田隆種 はらだ たかたね (?~?) 原田家
筑前の国人。原田家は壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)助けた大蔵広隅を祖とする名族だが、隆種の時代は西国の大大名、大内義興に従い、義興死後は義隆に従った。大内家が滅ぶと、大友、毛利、龍造寺と主を変えながら生き残りをはかり、大友家に属して参加した高城川(耳川)の戦い後は龍造寺家に属した。その過程で跡継ぎである息子たちに先立たれるという悲劇に見舞われ、家督は孫の信種が継ぐことになった。
原田信種 はらだ のぶたね (1560?~1598?) 原田家
筑前の国人。隆種の孫。隆種の後継者候補であった叔父たちが隆種に先立って亡くなっていたため家督を継いだ。龍造寺隆信に従っていたが、隆信が沖田畷の戦いで討死し、隆信の跡を継いだ政家が島津家に降るとそれに従った。豊臣秀吉の九州征伐が始まると、最初は抵抗しようするが圧倒的な戦力差の前に降伏した。九州征伐後、肥後を与えられた佐々成政の与力となるが、成政が切腹となると、肥後北半国を与えられた加藤清正の与力となり、そのもとで参加した慶長の役で討死したといわれれている。
松浦鎮信 まつうら しげのぶ (1549~1614) 松浦家
肥前の戦国大名。大友義鎮(宗麟)から偏諱を与えられ鎮信と名乗った。大友家が衰退し、龍造寺隆信が台頭してくるとその傘下に入るが、隆信が沖田畷の戦いで討死すると独立した。豊臣秀吉と早くから誼を通じ、九州征伐で活躍して所領安堵をされた。その後、文禄・慶長の役にも参加し抜群の武功を挙げる。関ヶ原では子・久信が西軍に属したが、自身は東軍に属したため所領は安堵され平戸藩初代藩主となった。父の代に衰退した平戸貿易を徳川家康の許可を得て復興させ藩を繁栄させた。